キャラクタービジネスの知られざる歴史 -ミッキーからペコちゃんまで-| Talked.jp

Talked.jpby Sony Digital Entertainment

福田:編集室は、早稲田にあったんですか?

高橋:はい。「スタジオ・ハード」って会社です。

福田:1981年に作って……。

高橋:個人事務所から法人になって、91年までの10年間はバカスカやって、最終的には90年代真ん中に社員100人体制にまでなって、年商7億5000万くらい売り上げたんですね。僕らの本、1冊の定価のうちの大体7パーセントぐらいもらっていたんですよ。約3パーセントがゲームメーカーとか版権元にいき、10パーセントから残った金額の7パーセントで編集デザインするんですけど、それが7億あるってことは、われわれが作った本は末端では100億になったってことですよね。

福田:そうですよね。

高橋:書店のいわゆるリテルプライス(小売値段)では100億円に到達する仕事をわれわれが100人でやるまでになって、ちょっと行き過ぎたんですね。

福田:それ、バブル前夜ですけど、雑誌が全盛期だからあり得たんですよね。

高橋:80年代から90年代はそれでよかったんです。ところが、創業20年後の2001年に安易なIPO、新規株式公開を夢見て、ドーンと大クラッシュ。時速200キロで90Rぐらいのコーナーをブレーキかけずに回ったようなもので。結局、会社を乗っ取られ・・・。

福田:2001年か、割と最近の話ですね。

高橋:2003年に今の「スタジオ・ハードデラックス」という会社を新たに作り、10年ちょっとになります。この会社での僕の命題は、スタッフは20人以上にはしないと。

福田:素晴らしい。

高橋:20人ぐらいが一番見やすいんですよ。

福田:分かります。だから、学校の先生ですよね。僕、同じコンセプトです。

高橋:100人体制のときって、本当に僕が知らないうちに社員が採用されて・・・。

福田:絶対そうなんですよね。で、知らない仕事が行われちゃう。

高橋:あと「スタジオ・ハード」のときは社員を何とか65歳まで喰わそうという志があったんですが、今の会社では、若いスタッフに「うちの会社に3年以上はいなさい。それぐらいいないと業界のこと分かんないから。でも上限5年を区切りにして、この会社よりいい所見つけて出ていきなさい」と言って、卒業っていう形で、どんどん外へ出しています。半分会社、半分学校みたいな感じですね。

福田:その考えがすごいですね。そうやって高橋さん門下生が・・・。

高橋:ジリジリ増えてくみたいなことを、今狙っています。そのためにも社員が20人は超えないようにしようというのが、僕の中の一つのテーマなんですけどね。

初期ディズニーで活躍したケイ・カーメン

キャラクタービジネスの知られざる歴史 -ミッキーからペコちゃんまで-

ウォルト・ディズニー(左)とケイ・カーメン(右)

福田:さて、いよいよ本題に入りますが、僕が今回高橋さんにインタビューをお願いしたのは、ケイ・カーメンさんの話が聞きたかったからなんです。僕、この人のこと、知らなかったんですよ。初期のディズニーに、こんな人が……。1949年に亡くなっているそうですね。

高橋:はい。飛行機事故で奥さんも一緒に亡くなったのですが、その死亡記事はフランスの通信社から配信もされたんですよ。そのときのプレスリリースを複写したものがイーベイに出ていたので、思わず買ってしまいました。「ディズニーのマーチャンダイジングをやっているケイ・カーメンが亡くなりました」というような原稿がタイプライターで打たれていて、その上には本人と奥さんの生前の写真も載っているんです。通信社が配信するぐらいディズニーを盛り上げたマーチャンダイザーだったということです。しかも、ケイ・カーメンはウォルトディズニーのマーチャン部門に属していたわけではなく、自らが経営していた、ケイ・カーメンエンタープライズとして、ウォルトと契約をしていたんですよね。

福田:確か1931年にディズニーに乗り込んでプレゼンして、ディズニー兄弟の目の前で小切手切ったと。

高橋:そうです。

福田:商談で兄弟を納得させて、商品化まで全部自分でコントロールしていたんですか?

高橋:はい、そんなことやった人、それまでいなかったんですよね。もともとは人形作家が「人形を作らせてくれ」と売り込みにきて、ウォルトが「いいよ」って許諾して、できあがったミッキーマウスの人形が売れたっていうレベルだったので。

キャラクタービジネスの知られざる歴史 -ミッキーからペコちゃんまで-

ケイ・カーメンエンタープライズの商品カタログ

福田:昔ながらの、のどかな……。

高橋:ケイ・カーメンは奥さんが服飾デザイナーだった関係で、メイシーズなどアパレルの有名どころとは全部付き合いがあったんです。で、いち早く「毛皮は儲かる」と見抜いて、1930年代にブームを仕掛けたんですね。

福田:なるほど。

高橋:当時、女性が毛皮を身につけることはあまりなかったのですが、ケイ・カーメンが奥さんと組んで、ミンクの帽子やコートを流行らせ、一気に毛皮の価値を上げた。それで手に入れた大金を全部突っ込んで、ディズニーに「俺と組め。儲けは半々だ」って交渉したわけです。

福田:ディズニーにはそれだけの価値があると……。

高橋:認めていたのですね。

福田:それは、「蒸気船ウィリー」(ミッキーマウスの最初の短編作品)でブレイクした後ですよね?

高橋:はい、ミッキーマウスのシリーズは1928年から始まったので。

福田:じゃあ、ケイ・カーメンは誰もが知っている「あのディズニー」に乗り込む感じ?

高橋:そうですね。

福田:だからこそ、「大枚はたかないと駄目」と考えたのでしょうね。すごい目利きですね

高橋:その頃、ディズニーは『白雪姫』(1937年)を作ろうと企画していたのですが、「長編で勝負しなきゃ駄目」だと考えていたんです。短編をコツコツ作って人気上がっても、そこから先のマーチャンダイジングのイメージが浮かばなかったのでしょう。やはり短編と長編では、フィルムのプライスが違うと。そこに、ケイ・カーメンがフッと現れて、「この金でどうだ」って言ったから、「分かった」って引き受けて、それが成功に繋がったんですよね。