対談 漆紫穂子 × 福田淳

福田:最初の「変えない部分」というのは、ひと言で言うと何だったんでしょう。品女の独自性みたいなもの。それが個性と言えるものですね。

漆:それは、三つですね。品女は、今から90年前の大正14年、まだ女性に参政権がないときに、私の曾祖母が創立した学校です。当時、女子教育は必要ないということで、公的な女子高がない時代に、「いつか女性も望めば、政治経済にも関わる時代が来る。そのときに社会に役立つ力を身につけよう」というのが創立時の精神でしたから、「女子校である」というところには、まず強いこだわりがありました。もうひとつは、創立からずっと、地域の学校として親しまれていたので、品川の土地からは移転しない、ということ。共学化や移転で伸びた学校もありますけど、そういう手段は取らない、というのはありました。三つめは、どんな改革もチャレンジも、つねに「生徒の将来のためになるか、ならないか」に照らし合わせて考えるということですね。父も私も、もともと教員という仕事が好きで、結果、経営者になりましたから。

福田:僕がソニー・ピクチャーズエンタテインメントという映画会社にいたとき、そこでもみんながいろいろと、新規事業を考えたんですね。「ゲームが流行っているから、新しいゲームをやろうよ」とか、「オンデマンドだから、映画配信だ」とか。それで、あるシカゴのブランディング会社に、「ちょっといいアイデアを出してください」とコンサルタクトをお願いしたわけです。そしたら「まず幹部の人が3人来てくれ」と。「3日間、絶対スケジュールを空けてくれ」と言われて、ひたすら質問されるんですよ。で、そこから物事を提案してくるんですが、ある同僚が、「こちらは金を出してアイデアをくれと言ってるのに、ヒアリングばかりで何事か」と怒ったわけです。でも先方の言い分には説得力あって、「我々がどんなにイノベーティブで素晴らしいアイデアを提案しても、あなた方の脳みそにないものは、理解してもらえないと思う。だから我々はそれを引き出してまとめて、それに5パーセント程度、アイデアを付加したものを出す」と。まとまった提案は素晴らしいものでした。映画会社は多角化して、衛星放送を始めて、テレビで収益の基盤を作るという流れができたのも、漆さんのおっしゃった、「もともとあるDNAを変えない」という部分を理解できたので、逆に大胆に変えられたのだと思います。
かつてルイ・ヴィトンが、マーク・ジェイコブスをクリエーティブディレクターとして入れて、「今までのダミエ柄もいいけども、村上隆さんを起用しよう」とか、そういう大胆な改革に踏み切った結果、トラディショナルな商品もアヴァンギャルドな商品も売れて、ブランドが新鮮になったんですよね。一方で、トラディショナルな商品にこだわり続けて、すべて変えずにいたらつぶれてしまったというブランドのケースもある。
品女の場合は、「守って変化させた」ということのバランスが、すごくうまくいったのではないでしょうか。

漆:当時は夢中でしたが、今振り返ると、そういうことだったのかなと思います。