「ヒットの神様」に愛されるには?
YMO、ユーミンを生んだ
名プロデューサーの破天荒人生
(後編)
編集・構成:井尾淳子
撮影:越間 有紀子
日程:2022年7月13日
川添 象郎(写真/左)
1941年東京都生まれ。父はイタリアンレストラン「キャンティ」を創業し、国際文化事業で知られる川添浩史、生母はピアニストの原智恵子。明治の元勲、後藤象二郎を曽祖父にもつ。慶應義塾幼稚舎を経て、ラ・サール高等学校から和光高等学校に転入。高校卒業後、マグナム・フォトのルネ・ブリやデニス・ストックの来日アシスタントとして働く。
60年に渡米。舞台芸術とショービジネスをラスベガスで働きながら学ぶ。フラメンコ・ギタリストとしても活動。オフブロードウェイの前衛劇『六人を乗せた馬車』に参加し、世界ツアーを経験。帰国後、反戦ミュージカル「ヘアー」をはじめ、音楽と演劇を中心に数々のプロデュースをおこなう。
1977年、村井邦彦とアルファ・レコードを創設し、荒井由実、サーカス、ハイ・ファイ・セットなど、現在では「シティポップ」として世界的にも評価される、都会的で洗練された音楽をリリース。YMOのプロデュースでは、世界ツアーを成功に導き、日本を代表するポップカルチャーとして世界的存在に仕立て上げた。
イヴ・サンローランの日本代表やピエール・カルダンのライセンス開発も手掛け、1980年代半ばには、空間プロデューサーとしても活動。
2007年にはほぼ20年ぶりに音楽プロデュースに復帰し、SoulJaをプロデュース。青山テルマ feat.SoulJa『そばにいるね』は日本で最も売れたダウンロードシングルとして、ギネス・ワールド・レコーズに認定。2011年にプロデュースしたふくい舞『いくたびの櫻』はレコード大賞作詞賞を受賞。2022年7月30日に自叙伝『象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』(DU BOOKS)を上梓。
福田 淳(写真/右)
連続起業家
1965年、大阪生まれ。日本大学芸術学部卒業。
ソニー・デジタルエンタテインメント創業者
横浜美術大学 客員教授、金沢工業大学大学院 客員教授。
女優”のん”などタレントエージェント、ロサンゼルスを拠点としたアートギャラリー運営、バケーションレンタル事業、沖縄でリゾートホテル運営、大規模ファーム展開、エストニア発のデジタルコンテンツ開発、スタートアップ投資など活動は多岐にわたる。
自社の所属アーティストとは、日本の芸能界にはなかった「米国型エージェント契約」を導入したことでも話題を呼んだ。
1998年、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント社 バイス・プレジデントとして、衛星放送「アニマックス」「AXN」 などの立ち上げに関わる。
カルティエ「チェンジメーカー・オブ・ザ・イヤー」受賞 (2016年)
ワーナー・ブラザース「BEST MARKETER OF THE YEAR」3年連続受賞 (2012-14年)
日経ウェブ「21世紀をよむITキーパーソン51人の1人」選出 (2001年)
文化庁 「コンテンツ調査会」委員
経済産業省 「情報大航海時代考える研究会」委員
総務省 「メディア・ソフト研究会」委員
著書
『ストリート系都市2022』(高陵社書店)
『スイスイ生きるコロナ時代』(髙陵社書店) 共著 坂井直樹氏
『パラダイムシフトできてる?』(スピーディ出版)
『SNSで儲かるなんて思ってないですよね?』(小学館)
『これでいいのだ14歳。』(講談社)
『町の声はウソ』(サテマガ)
(株)スピーディ 代表取締役社長
Speedy Gallery Inc. (CA, U.S.) - President
Speedy Euro OU - President
NPO「アシャンテママ」 代表理事
NPO「ファザリング・ジャパン」監事
公式サイト:
http://AtsushiFukuda.com
対談YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UC3oCfveGQgT2Lpx27O9NDIw
荒井由実(ユーミン)を生んだプロモーション戦略
福田:で、土俵際の大ヒットが出た、と。……それで、YMOについては?
川添:……あぁ、話が途中でしたね。で、細野晴臣くんのところには、やっぱりいいミュージシャンたちが集まってくるんですよ。その中で、細野晴臣くんが4人組のセッションミュージシャンのチーム「ティン・パン・アレー」をつくると言ってきたの。キーボードが松任谷正隆。ドラムが林立夫。ギターは鈴木茂、それでベースが細野晴臣っていう面々で、レコーディングのバックトラックをつくるということだったんですね。で、そこにたまたま「ヘアー」の頃に15歳でうちに出入りしていた、荒井由実という女の子がいたんですよ。
福田:すごいですね……。ユーミンは15歳で、大人たちのコミュニティに出入りしていたんですね。
川添:そう。彼女の地元だった八王子から、バスとか電車とかを乗り継いで、六本木までやって来ていた勇敢な女の子でね。僕らの仲間だったの。それでユーミンがある日、「私、結構いい曲を書くの」と言うから聞くと、本当にえらい、いいもんだったので、最初は作詞作曲だけで彼女の作品を使っていたわけ。そうしたら村井くんが、「彼女さぁ、歌はあまりうまくないけど味があるでしょう。だから本人に歌ってもらって、本人のアルバムをつくろうよ」となったんです。そこで、さっきの細野晴臣くんのセッションバンドチームと組ませよう、となった。コーラスは、当時はまだ全く無名の山下達郎や吉田美奈子、大貫妙子……。
福田:どんなすごいメンバーなんですか(笑)
川添:ねぇ(笑) バックコーラスだけど、それ専門のユニットをつくっていたので、そういうミュージシャンが全部集結していました。いまでは絶対に不可能な面子で、それだけのチームでユーミンのレコーディングを始めたんですよ。最初のアルバム『ひこうき雲』は、ラジオで話題になって売れたのですけど、それでも2~3万枚でね。でも村井くんがかなり凝って制作したから、それでは全然、元が取れない。次に、僕がつくったユーミンのアルバムが『MISSLIM』です。やせっぽちの女の子=「MISS SLIM」をくっつけて、造語で『MISSLIM』というタイトルにしたんですけども。それも、ものすごくいいアルバムなんだけど、やっぱり2~3万枚。で、3枚目もつくっちゃおうとなって……。
福田:やめないんですね。
川添:やめないの。しつこいのよ(笑)「僕たちがつくったものはかっこいいんだから、絶対にいつか売れる!」っていうね。でも2枚目と3枚目の間、「何で売れないんだろう」といろいろ考えて出た結論が、「プロモーションが足りない」ということ。でも、ユーミンはテレビに出すと歌はあまりうまくないし……。
福田:アハハ!!
川添:それにティン・パン・アレーは、マルチトラックレコーディングでつくり込んであの音を出しているから、テレビでは出せないんです。そこでハッと思いついたことがありました。(当時の地上波の)音楽番組の部署にかけあったって出してもらえないから、ドラマ班のところに行こうと思いついたんですよ。要するに、「ゴールデンアワーに、お茶の間のテレビから音楽が流れれば、それがプロモーションになるだろう」と思ったんですね。で、ドラマのプロデューサーのところに行って、「ドラマの主題歌の製作費はいくらくらいなの?」と聞くと、「主題歌は最後の最後だし、(本編の)画のほうが大事だから、20万くらいの予算でやっとつくっている」と言うのよ。そこで、「実はこの荒井由実っていうミュージシャンの曲は、1曲数百万円かかっているんだ。でもタダで使ってもらっていいから、主題歌をこれにしない?」ともちかけたわけ。そうしたら「本当? いいの?」って。「その代わり、その音をオープニングとエンディングに出して、クレジットには必ず歌手の名前を“荒井由実”と入れて」「そんなの楽勝だよ」って。いまはドラマの主題歌をどうするなんて、業界のしがらみがあって大変ですよね。でもその当時は、誰もそんなことはやっていなかったわけですよ。でも考えてみれば、音がしっかりと乗って、クレジットが入るということで、テレビメディアにしっかり乗ればいい。でもそれまでは、そこに誰も気が付かなかったんだね。
福田:いや、いまは本当に大変ですよ! 要は日本で最初の「タイアップ」ですよね。誰もやっていないことを見つける。それもまた「ヒット」の秘訣でしたね。
川添:それで青春ドラマの頭とケツに、その音楽が流れました。そこから「荒井由実って何者だ」っていう話になって、それでズバーン!!!って、レコードが飛ぶように売れ始めてね。そうしたら、ファーストアルバムもセカンド・アルバムも、3枚目のアルバムもすごくちゃんとつくってあるから、あっという間にものすごい勢いで売れるようになって、彼女はスーパーヒットアーティストになっちゃったわけ。