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細野晴臣との出会い

「ヒットの神様」に愛されるには?YMO、ユーミンを生んだ名プロデューサーの破天荒人生(前編)   Talked.jp

福田:川添さんがベガスからロサンゼルスに戻らずにニューヨークに行ったのは、やっぱり舞台に関心がおありになったからですか。ライブというか、音楽というか。

川添:当時はあまりちゃんとした目的、目標なしにフラフラしていただけですからね。行き当たりばったりで。それでニューヨークに行って、しばらくして舞台美術の伊藤さんの家から出て、グリニッジ・ヴィレッジに移り住みました。ウッディ・アレンの映画『アニー・ホール』にも出てくる街ですよ。そこには当時、芸術家やその卵たちがいっぱい集まっていたんです。絵描きでいうとアンディ・ウォーホルとか、サム フランシスとか、ジャスパー・ジョーンズとか。ジャズライフ゛・スポットとして有名なヴィレッジ・ゲイト、ライブカフェて゛有名なガスライト、 カフェ・ビザールなと゛、中小のカフェか゛たくさんあって、みんながたむろしているところに僕も行って遊んでいたりしていましたね。

オノ・ヨーコもいましたよ。そのころ芸術家は、安い倉庫を借りて、改造してアトリエにしていたんです。オノ・ヨーコも自分のロフトを持っていて、パーティーがあるというので遊びに行くと、えらい数の風船をフワフワと浮かして、来た客は針でそれを突いて割るという面白い仕掛けになっていました。

福田:すごい。やっぱり前衛ですね……でも、それでもまだ川添さんが20代前半くらいとかのお話ですよね。

川添:まだ、20歳ですね。

福田:まだ1年……。その後、現在の御年80歳までのストーリーをお聞きしたら、80時間くらいかかるかもしれないので(笑)、ものすごくお聞きしたいのですけれど、川添さんの人生の詳細については新刊のご著書を読んでいただくとして、ちょっと端折りましょう。

川添:はい、わかりました。中抜きしましょう(笑)

福田:やっぱり、川添さんにどうしてもお聞きしたいのは、「どうやってヒットを出すのか」ということです。そんな法則はないのかもしれませんけども。川添象郎さんといえば、YMOからユーミンから、平成でいうと「日本で最も売れたダウンロード・シングル」としてギネス世界記録に認定された青山テルマの『そばにいるね』など、プロデュースしてヒットさせた数がとにかくすごいじゃないですか。それらの作品を一体どうやってヒットさせたのか、教えていただきたいです。

川添:それはね、「ヒットの神様」というのがいるんですよ。「ヒットの神様」が後ろについているやつは、ヒットが出るの。ついていないやつは、一生かかってもヒットは出ない。そんな感じですね。

福田:いきなり核心にきましたね(笑) ということは、教わるものではない……。

川添:ない。

福田:ないんだ……(笑) じつは、この間亡くなられた藤子不二雄A先生も同じことをおっしゃっていました。「生まれたときから(ヒットするしない)は決まっているから、努力は無駄だよ」って。今日のインタビュー、これで終わってしまいました(笑)

川添:そう、それでおしまいです。

福田:うーん……。でも何かやっぱり、あるのではないでしょうか。ちなみにYMOのお三方との出会いというのは、どういったことだったのでしょう。

川添:まず、細野晴臣という天才音楽家がいたんです。僕はそのころ、「ヘアー」というミュージカルのプロデュースをしていまして。「ヘアー」は、ヒッピーの若者たちのみて゛構成されているロック・ミュージカルで、1960年代後半から1970年代初頭にかけて上演されました。ベトナム戦争に嫌気がさしていた若者たちの、カウンターカルチャー(反体制文化)の世界を再現した舞台です。ニューヨークのタダウンタウンの小劇場で上演されてからヒットして、瞬く間にドイツ、イギリス、フランスへと、異例 の速さで広がった作品でもあります。

福田:「ヘアー」というと、川添さんが独占交渉権を得られて、日本に持ち込まれたことでも知られていますね。

川添:そうそう。当時は日本にヒッピーなんて存在していない時代です。みんな髪を短く刈って、真面目に会社や学校に通うような生活を送っていた時代だったから、反体制の象徴のような「ヘアー」を日本でやろうなんて、かなり無謀だったんですけども。当時、三島由紀夫とも懇意にされていた松竹の永山武臣さんという専務に会いに行ったところ、世界中にムーブメントが起こっていたことから興味をもっていただいたんですね。 それで、当時はうちに「ヘアー」のキャストがよく集まって、毎晩ギターを弾きながら遊んでいたわけ。その中に小坂忠っていう歌のうまい子がいて、その子が「すごくセンスがいい人だから」と連れてきたのが細野晴臣くんだったんです。僕と朋友でもある村井邦彦(作曲家・音楽プロデューサー・アルファレコード創立者)と2人でいるときに、細野晴臣が僕のギターを持ってペロッと曲を弾いたら、それがめちゃくちゃかっこいい。全然、ほかのアーティストとは違うわけ。それで「すごいね、君!」っていう話になって、仲よくなったわけ。

福田:またそれも、すごいエピソードですね。それは、細野晴臣さんがおいくつくらいのときですか?

川添:僕が30歳くらいのときだから、細野晴臣くんは24~25歳かな。まだ無名のミュージシャンですよ。それですごく仲よくなって、「ヘアー」の公演が終わって、先述のキーヤン(木村英輝)とミッキー・カーチス、内田裕也と僕との4人で、ミッキー・カーチスのアパートでレコードレーベルの創立について作戦会議をしていたわけ。「日本の音楽はダサイから、僕たちが好きなレコードを作って売り出しちゃおう」と。ところが4人ともアーティストだから、アイデアはあってもお金がない。で、この4人の話を、(アルファレコード創立者の)村井邦彦にしたら面白がってくれて。コロンビアレコードから、あっという間に資金を調達してきたわけ。それが日本最初のインディーズレーベル「マッシュルーム」のはじまりです。要は僕たちが製作費を使って自分たちのいいと思う、こだわった音楽を作って、レコード会社に売るというシステムです。で、そこに細野晴臣くんにも参加してもらって、小坂忠のアルバムを作ったりして。『HORO(ほうろう)』っていうアルバムで、これはもう名作なんですけどね。今聞いても、50年前とはとても思えない。

福田:聞いてみます。

川添:素晴らしいですよ。ぜひ。

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