キャラクタービジネスの知られざる歴史 -ミッキーからペコちゃんまで-| Talked.jp

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もっとケイ・カーメンについて掘り起こしたい

キャラクタービジネスの知られざる歴史 -ミッキーからペコちゃんまで-

ケイ・カーメンエンタープライズ社の「ピノキオ缶バッジ」

高橋:その後、ウォルトはヨーロッパに目をつけるんです。1945年にフランスが解放されれば、当然、アメリカもバンバン戦後支援に入っていくだろう。敗戦国のドイツも、実は戦前から既にミッキーは当たっていたので、戦後復興していくにつれ、また人気が出るだろう。よし、これからヨーロッパにもディズニーが入るぞって。そういういうタイミングで、ケイ・カーメンはフランスに乗り込んで、ヨーロッパにおけるマーチャンダイジングとレプリゼンティブについて打ち合わせをしたんですね。で、アメリカに帰る途中、エアフランスの飛行機が墜落して、夫婦ともに亡くなっちゃった。

福田:そうなんですね。

高橋:ある本によると、ケイ・カーメンはフランスから「今回の旅行はビジネスの話はうまくいったけど、なんか悪い予感がする」と書いた手紙を出しているんです。それが届く前に、本人はもう亡くなっていたっていう。

福田:すごい。

高橋:ディズニーもすごいですよ。当時、ケイ・カーメンはニューヨークとシカゴ、ロサンゼルス、あとフロリダにもライセンスと拠点があって、何百人ものスタッフを抱えていたのですが、このスタッフごとディズニーが引き取ったんですよね。もともとディズニーのマーチャンダイジング契約はケイ・カーメン個人と一身専属だったんです。経営者が突然いなくなり、ケイ・カーメン社をどうしようって話になって、ディズニーが全部マーチャン部門は引き取った。

福田:まぁ、別に親切心だけじゃなくて、市場規模もあったんでしょうけどね。

高橋:当然、儲けも大きいですよね。丸々だから、引き取っちゃったってこともあると思います。

福田:最初の契約では「儲けは半々」だったのが、これでね……。遺族はいなかったんですかね。

高橋:娘がいたはずなんですが、そこも今、一生懸命調べています。ケイ・カーメンが持っていた商品化権はその後、ディズニーでどういう扱いを受けていたのかとか、ケイ・カーメンの遺族がどのぐらいディズニーの株を持ってたのかとか、いろいろ……。

福田:知られていないことがいっぱいありそうですね。

高橋:そうなんですよ。なぜか英語のウィキペディアにはこのケイ・カーメンのことは書いてないんです。僕、彼のことを本当に調べたくて、Googleで言語検索って選べるので、ケイ・カーメンっていうスペルでドイツ語検索とか。

福田:フランス語検索とか。

高橋:そう、フランスのウィキペディアだけには書いてあるんですよ。アメリカ人なのに、英語でないのは、なんかの陰謀みたいな……。でも、まさか今のディズニー社が当時のことを書くなって命じているわけでもないだろうし、いまさらね。

福田:そうですね。

高橋:とにかく、あまりにケイ・カーメンに関して語る人がいないので、ちょっと掘り起こしたいなと思ってて。

福田:いや、絶対いいですね。この人の人生を知りたいですよね。

高橋:なんか悲劇の匂いのする人なんです。そこも面白いかなと思って。

山﨑パンのスージーちゃん 原型はアメリカ

福田:僕、山崎パンのシンボルマークのスージーちゃんも面白いな、と思ったんですけど。

高橋:面白いでしょ、これ。山﨑パンの配送トラックに貼ってある・・。このアムッて食パンかんでいる女の子のモデルは、スージー・ポーマンちゃんという実在の子なんです。1960年代に日本で外人モデルとして活躍していたんですね。で、背景を赤の丸にしてデザインをしたのが僕の師匠なんですよ。ピーターズ・アドの福島さん。その方が山崎パンから頼まれて生み出したのが「スージーちゃん」なんです。この福島烈さんは山崎パンが食品フィルム包装という技術で工場型ベーカリーで成功して行く時に、菓子パンのパッケージデザインをやられたんですね。デザイン料をロイヤリティで貰って菓子パンひとつ売れるたびに何十銭が貰って大変な収入を得たという。高校の頃から福島さんの事務所に出入りして卒業した頃には、彼が当時発行してたミニコミ誌の映画欄を担当させて貰いました。無給ですけど。で、これがきっかけで映画宣伝部に入り込んで行った。恩人です。

福田:そもそもはクライアントが「シンボルマークになるキャラクター、必要だよね」と言って、作られたもんですよね?

高橋:そうです。実は、この原型もアメリカにあるんですよ。アメリカの食品トラックって、こういうキャラクター系のものをバンバン付けて走ってたんですね。それを見た人が「これだな」って日本に持ち込んだ、というだけのことなんですけどね。

福田:その流れをくんで、スージー・ポーマンちゃんをキャラにしたと・・・。

高橋:だから、1950年代、60年代にアメリカに行った日本のビジネスマンやコンシューマープロダクトの人たちがどれだけ「これ、日本でもやれる!」っていうものを見つけて、持ってきたかが大事なんでしょうね。

福田:でも、結局、今ネットでもそうですけど、アメリカで流行ったものを持ってくるとか、僕は関西出身なので、東京で流行っているものを買ったりもしましたけど、地域の違いとか時代の違いも考慮しないとダメですよね。先に見つけた人は儲けたとしてもその期間が短い。僕が見ている限りでは、意外と二番手でやった人の方が長生きして、天才が損する構造にはなってる。

日本でも活躍したレイモンド・ローウィ

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初期のLOOKパッケージ

福田:あと、高橋さん、不二家についても、いろいろ調べていらっしゃいますよね。

高橋:はい。ルックチョコレートってご存知ですか。一個一個分かれてるやつ。

福田:もちろん、分かりますよ。

高橋:あのパッケージデザインって、レイモンド・ローウィ事務所なんですよ。ニューヨークのデザイン事務所なんですけど、ここには「口紅から機関車まで」って有名な言葉があるんですよ。「リップスティック、トゥー、ロコモーティブ」っていう、かっこいいでしょ?

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レイモンド・ローウィと蒸気機関車

福田:かっこいいですね。

高橋:つまり「レイモンド・ローウィ事務所は、とにかく広告デザインや工業デザイン、商品パッケージを全部やります」と。口紅のデザインも、蒸気機関車もやりますって言って、流線型デザインとかジェネラルエレクトリックスのモワンとした流線型の冷蔵庫とかあの手のものを全部やった人なんですね。『タイタニック』のジャック・ドーソンは、彼がモデルなんです。というのも、フランス人のレイモンド・ローウィは若いときに親を亡くしちゃって、天涯孤独になって、10代で客船フランスっていう三等客室でもって、ニューヨークへ渡るんですね。その船内で金持ち集めたチャリティーがあるんです、海難で亡くなった人の寄付を募る。いい絵を描いたやつには金を出すと。レイモンド・ローウィも描いて、チャリティーに出すんですね。で、才能が認められて、メイシーズのオーナーから「うちのショーウィンドウやらないか、君」って言われて、瞬く間に仕事取っちゃったみたいな。さっそくメイシーズに行ってみると、ガラスケースに百貨店で売ってるものが全部ごちゃごちゃ並んでいるわけです。で、レイモンド・ローウィが「これ、違うんじゃないですか?」と。若干そのとき、19とか20歳とか。