2.クリエイターではなく、
マーケター、ビジネスマン向きだと気づいた
さて、高校卒業後ですが、映画監督になるためにはまず日大芸術学部に入るしかないと思っていました。先ほどお名前の出た長崎監督や森田監督が日芸の先輩だったので・・。ところが、第一志望の映画学科にいきなり落ちるんですよ。で、文芸学科に行った途端に「小説家になろう」と方向変換しました。本当に若者ってポリシーなくていいですね。まぁ、僕は今でもそうですけど(笑)。で、書いたんですよ、小説を。そしたら、その作品が早稲田文学に掲載されたんですね。すぐに2作目の依頼があり、僕はすぐいい気になる性格なので、「これはもう作家デビューだな」と浮かれました。ところが、今度は全然書けなかった。結局、小説は1作だけで終わりました。
で、「次は芝居だな」って今度は演劇に飛びつくんです。けど、学生の演劇って入場料安いうえに、親戚とか友達しか来ないので、どこも赤字なんですね。それを知って「クオリティ高いもの作って、チケットの単価を上げよう」と考えたわけです。早速演劇プロデューサーとしてそれを実行したら、毎回黒字なんですよ。この頃から徐々に「僕はクリエイターではなく、マーケター、ビジネスマンが向いているんだな」と気づきました。
3.突然会社をクビに。
31歳で暗転、お先真っ暗!
その後、バブル真っただ中の1988年に東北新社という会社に入社しました。CM部に配属になりまして、パシリとして何でもやりましたね。コカ・コーラのCM、ご存知ですか?「I feel coke」とか、「スカッとさわやかコカ・コーラ」とか・・。あれ大体夕日が沈む40分前くらいの黄色いライトが理想的なんですよ。今だったらCGで色を変えるんでしょうけど、当時はフィルムですから、夕暮れの一時に狙いを定め撮ってました。ちょうどジュリアナが流行った頃で、給料安いのに毎晩毎晩夜遊びしていましたね。当時、深夜2時頃タクシーつかまえようと思ったら2時間ぐらい赤坂で待たなきゃいけなかったんですよ。それぐらい景気よかったんですね。
その数年後から東北新社は衛星放送事業に乗り出していて、1989年5月に映画専門の「スター・チャンネル」を始めるんです。当時まだアナログの衛星放送でしたけども。僕もそこに異動になり、映画の買い付けで初めてカンヌに行ったりもしました。この辺までは洋々たるキャリアだったわけなんですけど、なんと突然会社をクビになるんですね、31歳で。暗転ですよ。お先真っ暗です。
4.なんで平日の昼間にお父さんがいるの?
転職経験者に話聞くと、皆さん頭いいですよね、次の会社決めてから辞めたって言うんですよ。僕にはそういう発想が全くなくて、「何だい!」と勢いで辞めたら、本当に次の月から収入ないんですね(笑)。当然なんですが、びっくりしました。東北新社時代は、社長に凄く可愛がられていたので、家建てたりベンツ買ったり、派手にやってたんですね。それが急に仕事なくなって、無職の時代が2年間続きました。
ちょうど娘が生まれたばかりだったもんですから、公園デビューですよ。今で言ったらイクメンですよね。でも、当時は「なんで平日の昼間にお父さんがいるの?」って怪しまれて、砂場に行っても、他のお母さんとその子どもが、うちの娘に遊具を貸してくれないんですよ。それくらい父親の育児が定着してない時代でしたね。そこで、当時できたばかりの玩具店「トイザらス」に行って、大量に安いスコップだ何だ買ったんです。それらをバーッと砂場に投げて「みんな好きに使って」と言ったら、やっとコミュニティの中に入れていただけました。