福田淳のメディア業界“カリスマ”対談シリーズ

福田:でもそういった当時の若者が、情報の中心にいる中で何か変革しようっていう経験をされて、それが今のネット革命みたいなところに繋がっているじゃないですか。

坂井:そうですね。ヒッピーたちは学生運動だとかマイノリティの解放運動をやる一方で、ジョブスみたいにコンピュータにも関わっていったわけです。コンピュータはそもそもヒッピー文化から発生しているものですから、インターネットはフリーにしろっていう思想も、おそらくヒッピー文化が根底にあるから出てきたんだと思います。 同じようにエコロジー運動もヒッピー文化から生まれたものです。僕の友人たちがスタンフォードで「ホール・アース・カタログ*1」を作っていて、そこからエコロジーという考え方が広がって、今では市民や企業、社会、国家までもが関与せざるを得ない状況になっています。 そういう意味では今の社会を支える思想的なものの多くは、60年代にはすでにあったと僕は思いますね。今はそれを具体化するためにいろいろやっている途中と言えるのではないでしょうか。ビジョナリーは60年代にいたってことです。僕の師匠の木村英輝*2さんみたいな。

*1:スチュアート・ブランドが1968年に発刊した不定期刊行のカタログ誌。現在はwebサイト(http://www.wholeearth.com)でも一部公開されている。

*2:木村英輝氏。ロックプロデューサーやコンセプチュアルデザイナーとして活躍。現在は画家として活動。

福田:卒業されてからは?

坂井:僕は卒業せずに京都芸大をドロップアウトしたんですけど、そのきっかけになったのが、毎年年度末に大学でやっていた展覧会。京都国立美術館っていう立派な美術館で展覧会を毎年開いていて、そこで僕は刺青のTシャツを作品として出したんですね。そうしたら展覧会に西武デパートのバイヤーがたまたま来ていて「1枚1万円で200枚買います」と言うんです。僕は作品として出していたけど、彼らはそれを商品と見たわけですよ。46年前の200万というと、今の2,000万くらいの感覚でした。 で、そこで僕は大学を辞めて、キャッシュを手にしてアメリカに行くことにしたんです。実はその頃、京都の山の中には本物のヒッピーがいたんですよ。そこにはドラッグもあるし、ローリング・ストーンズもビートルズもあった。サンフランシスコにあるヒッピー文化が全部京都にあったんです。そこの連中とコミュニケーションをしているうちに、ヒッピー文化のメッカを見てみたいと思うようになって。ヘイト・アシュベリーが当時のメッカだったので、そこに行くことにしたんです。アメリカのビザ取得もその頃は結構大変だったんですけど、友達がいたのでスムーズにいけました。 アメリカに着いてからしばらくは大学の学生寮にいましたね。スタンフォードとかバークレーとか。当時は大学もやってなかったですから、学長室に入って、机に足を投げて出して写真撮って遊んだりしていました(笑)。

福田:今やったら炎上ですね(笑)。

坂井:「いちご白書」みたいでしょ(笑)。当時は「体制カッコ悪い」っていう、非常にシンプルな価値観の時代でしたからね。 でもあの頃は、毛沢東とか三島とかゲバラとか、政治家がカッコいいって時代だったんですよ。カッコイイ男のベスト10の半分は必ず政治家。そんな価値観だったから、僕らも社会を変えようという意識がどこかにあった。僕の師匠の木村さんは「MOJO WEST」とか、「FUCK '70」とかのロックフェスを京大の西部講堂を勝手に乗っ取って始めたり、フランック・ザッパを呼んできてコンサートやって、京都の山に「Z」の大文字焼きをやったりしたわけです。そういうことをわりと平気でやっていて、今考えてみると不思議な時代でしたね。

福田:そういうパワーの発露を許す社会環境が、反体制といえどもあったわけですよね。寛容さというか。

坂井:そうですね。で、そうした社会的なレボリューションが起こる一方で、当時はアパレルも、ちょうど今のインターネットと同じような意味でレボリューションだったんですよ。70年以前ってテーラーやオートクチュールはあるんだけど、アパレルはなかったんです。今僕たちは環境的に恵まれていて、すごいデザイナーが作った服も安く買える。ユニクロでさえクオリティは素晴らしい。しかし当時はそういうものが全くなく、アパレルは革新的だったんです。そこで僕は木村さんとやった音楽とファッション、どちらの道に行こうか考えて、ファッションに行くことにしたんです。ファッションは当時の僕にとってものすごく魅力的だったし、一方で繊維産業っていうのはたくさんの人がご飯を食べられる産業じゃないですか。たとえばワイシャツ1つに400人の手がかかっているって言われるんですね。綿花を採って、糸を作って、織って、縫って、店舗で販売してって考えると、そのくらいの人が関わっている。ガンジーが西洋のもの全部捨てさせて繊維産業からインドを建て直そうとしたのは、非常に論理的なんです。 たくさんの人が飯を食える産業ですから。しかも農業から工業まで全部要素として入っている。そういうところにも面白さを感じていました。

福田:その観点は非常に面白いですね。以前アメリカのエコノミストがコラムで「’Facebook’が’WhatsApp’を買ったことはアメリカの将来にとって絶望的だ」と書いていて。 それは何故というと「たった50人が作ったものが1.9兆円にもなるということは、アメリカの雇用に一切役立たない」と。

坂井:インターネットの危険性はそこですね。効率が良すぎる。一方で70年代のファッション産業は効率が悪いが故に、たくさんの人が飯を食えるという文化がありました。そんな中、三宅一生さんが1970年にブランドを立ち上げ、僕もそういうムーブメントの一人としてWATERというアパレルを作りました。 それから20年くらいファッション産業にいたんですけど、良いデザイナーと良いセールスをキャスティングして新会社を立ち上げる手助けをする、外側からのベンチャーをやったんですね。結局27社作りました。そういう起業的なことが好きだったんです。 で、40歳になった頃、僕の立ち上げたファッションのオープニングパーティーに、たまたま日産のデザイナーが来ていて、「ちょっと華のある車を作ってほしい」とカーデザインを依頼されたんです。その人はすごく面白い人で、僕は免許を持っていないしカーデザインの勉強したこともないのに、僕にはそれを実現する能力があると見たんですね。そして実際に我々のチームは、Be-1、パオ、フィガロ、ラシーンと、それを達成したわけですよ。今、世界的に見ても、外部からカーデザインにコミットして成功させた事例はたぶん僕くらいだと思います。ちょっと自慢話みたいで嫌ですけど。 そこから僕は車に関心を持ち出したんです。元々ヒッピーですから「自転車に乗れればいいや、車なんて興味ない」と言っていたが人間が、40歳になってボケてきて(笑)。車もいいかな、みたいになった(笑)。 ただBe-1やパオ、フィガロ、ラシーンは、僕にとってはファッションデザインと同じなんですよ。要するにパッケージ。中身に関して僕は何も知らないし興味はない。そういう意味でいうと、今やっていることも実はファッションデザインかなぁと思っています。もちろんファッションデザインとプロダクトデザインに違いはあるけれど、僕の中では感覚的に同じなんです。

福田:その感覚はプロダクトデザイン、リパッケージにデザインが必要かどうかという話じゃなくて、商品そのものがもっているストーリーや時代性を見通されているからなんでしょうね。

坂井:時代の気分をパッケージングしていくということですね。そういう行為は今でも残っていて、Macのデザインなんて完全にそうじゃないですか。機能性や合理性だけであんなデザインになるわけがないんです。「機能性や合理性を追求すると美しいデザインになる」という考え方を好む人はとても多いですけど、でも本当は機能主義とデザインはそうそう一致するものでもないです。