お寺の経営に平等性は不要
福田:初めて青江さんや皆さんにお会いしたときに、日々の生活で全くお寺と関わりないビジネスマンとして新鮮だったのは、「寺っていうのは檀家さんだけのものじゃない」と口を揃えておっしゃっていたことでした。寺は一つのプラットフォームであり、集客だとかマーケティングだとかそういうのが必要だって、皆さんが明確におっしゃっていましたよね。それに驚いたわけですけど、今、伺うと、青江さんはもともと大学に行かれる段階においても、お寺の経営ってことを考えてやっていらっしゃったということなんですね。
青江:そうですね。あと、これだけははっきりお伝えしないといけないのですが、経営の前提として、お寺とは私有化された公共施設だと僕は思ってるんですね。公有というか国有の公共施設ってたくさんあるじゃないですか、お役所だとか。でも、それらの施設は、公有であるが故に絶対必要なのが平等性なんですよね。で、平等に考えると、あの企画はやったのにこの企画はできないじゃないかっていうときに「どうして?」っていう、全部ロジックが必要なんですね。このロジックってすごく時としては邪魔になって、何もできなくなってしまうこともあるんですよね。
福田:お寺は私有化された公共施設・・。
青江:私有化されているからこそ、例えば福田さんからチャリティ企画とか来たときも、僕の独断で「これはいいね、やりましょう」って言えるんですよね。そのスピード感であったりとか、取捨選択が住職側に任されている分、例えば、労働問題であったりとかそういう集会をやりたいっていわれたときに、「理屈は分からないけれども、これはうちのお寺とあんまりマッチしない」と僕の感覚、僕の判断で断ることもできる。「この集会には公共性もあるし良いものなんだろう。確かに必要だとは思うけど、僕の範囲じゃない」っていうのもたくさんあるんですよね。その取捨選択に公平性は全く必要ないんです。独断でやります、ただ公益のものに対して寄与します、その公益のさじ加減に関しては、僕が判断しますっていうことができる。
福田:それ、すごく大事なことです。というのも、ソーシャルメディアに欠けているリテラシーの中で、選択が自分に任されてる。そういう自由が脅かされてますよね。「私はこうしたい」って言ったら、そうしたくない人はどうするのっていう反証が必ず来るわけですよね。それは一人一人が疑似メディアになっちゃって、普通に反証が許される。個人が反証する手段があるわけですね。4媒体だけだったらなかったわけですよね。この間、海外ドラマ「ハウス・オブ・カーズ」の中で、上司が「おまえ、クビにするぞ」って部下を理不尽に罵りクビにしようとしたら、「録音していますよ、これをツイッターで流しますよ」って言われるシーンがあったんです。その瞬間に「やるならやってみろ」ってSNS世代じゃない上司が言うと、それがそのままツイートされ辞任につながっちゃうんです。なんかかっこいいシーンとして描かれていたんですけど、僕はそれ見て、公平性、フェアネスっていうのが極端にねじまがった状態にあると感じましたね。
青江:そう思います。
福田:なんか話の飛躍があって申し訳ないんですけども、私有化された公共性っていうのはお寺が持っている本来の力と合致する部分もあったのかもしれませんけど、ソーシャルメディア時代に個人が備えなきゃいけない特性の一つでもあるような気がして、すごく大事なポイントですよね。
青江:おっしゃるとおりなんですよ。例えば、お寺っていう切り口でいうと、「うちで坐禅会をやりたいです」って言われたらお断りするんですね。うちは座禅をする宗派ではないので。わかりやすいイメージとしては、仏教が全体的な総合大学だとしたら、うちの宗派は念仏学部。なので、念仏に関してはやります、と。一方で坐禅学部っていうのは別にあって、例えば曹洞宗っていう宗派であったり永平寺っていうお寺だったりするんですけれども、坐禅会はそこでやってほしい。他にも密教学部っていうのがあったり、宗派によってそれはもう学部なんですね。だからうちの学部でやるべきことはやりますと、でも他の学部でやるべきところは他でやったほうが確かでしょうっていう言い方をするんですね。