『千里を走る中国取材の道!』(対談 福島 香織 氏 × 福田 淳 氏) | Talked.jp

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対談  福島 香織 氏 × 福田 淳 氏

天安門後、いち早く中国との交流を回復した日本

福田:それで、ますます中国に興味をお持ちになったんですね。

福島:1989年に天安門事件があって、世界各国が引いているときに、日本がいち早く、経済制裁解除したんですけど。

福田:それはどうしてなんですか?

福島:日本の判断・・、当時、いろんな裏話を、私も聞いていますが、アメリカなんかは、自由と民主の国の建前上、天安門のようなことが起きると、人権の観点からも簡単に中国と妥協するわけにはいかないんですけれども、その一方で、すでに文革が終わって、鄧小平が改革開放をはじめて、中国の可能性について、それなりにみんな気付き始めてもいたんですよね。もちろん、そのときの可能性っていうのは、安い労働力というか、「プランテーション農業の工業版」だって言う人もいましたけど、そのとおりですよね。発想としては、帝国主義的な考えだったと思うんですよ・・。

福田:まあ、そうですね。隣国だったし、よくわかっているのもありますよね。

福島:やっぱり、日本の場合は国交のない時代から、政治ではなくて、日中友好商社みたいなものが、要するに企業ベースで作り上げた人間関係が脈々とあったんで、ずっとビジネスチャンスを求めていたんですね。そこで、早く経済制裁解除しなきゃいけないという判断をしたのが・・。

福田:1990年。

福島:日本がいち早く貿易を再開して、中国と関係を強めた結果、「90年代は中国だ」っていう流れができたんです。当時は上海閥が非常に隆盛だった時期で、そういう日中関係の良好な空気にも乗って、98年にようやく産経新聞の北京総局ができたわけです。新聞社の中で一番中国進出が遅かったんですよね。というのも、産経は文化大革命以降、文革を批判したことで中国に出入り禁止だったので。

福田:そんな長い間。

福島:そうなんですよ。だから、ものすごい水面下で交渉していたらしいです。

福田:でも、文革批判なんて産経だけじゃないでしょ、どうしてですかね?

福島:一番ひどいって言うか、激しく書いたせいもあります。もう一つは台北に支局を持っていたっていう・・。産経は台湾との関係が非常に強かったので、「絶対、台湾は閉じない」と。中国としては、「台湾と国交している国とは、うちは付き合わない」っていう主義だったので、それが最大のネックだったんですけれども、その解決策として、台湾は台北支局、北京は中国総局、つまり、中国が総局で、台湾はそれの支部って位置づけにしたんです。それはワシントンがアメリカ総局で、ロサンゼルス支局とかあるのと同じじゃないですか、みたいなレトリックで、台湾を支局を維持したまま、中国にも支局を開くことができたんですよね。