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今は「言葉」が軽んじられている

デザイン経営時代のブランディング 読書でしか、得られない価値

福田:中高生くらいの頃、当時、集英社から出ていた「世界の文学」っていうのがあったんですよね。…たぶんそういう名前だったと思うんですけど、むちゃくちゃいびつな編纂なんですよ。カミュの日記が入っているかと思えば、フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』が入ってたり、ハンパないというか、シュールなんですよ(笑)

*参考 集英社/世界の文学 全38巻 1976-1979年

幅:その編纂は誰がやっていたんですか? どなたか1人がやっていた感じですか? それとも監修チームが?

福田:それはもう覚えていないんですけどね…。ところが一冊読み切っちゃうと、お小遣いの問題があるんですよ、高かったから。僕は出身が大阪なので、梅田の合羽橋の古本屋で1冊ずつ買っては一生懸命読んで…。だからやっぱり言葉が大切だった。なんかもう、そのことくらいしか覚えてないんですけど。

*編集部注 : この『世界の文学』は、綜合社の森一祐の編集によるものだった。各国で台頭する著者とラテンアメリカ文学を目玉とする企画で、1976年から79年にかけて全38巻刊行された。 前回の「20世紀の文学」としての『世界文学全集』のバージョンアップ版とでも評すべきもので、新たに収録された主な著者と作品を挙げてみる。
ベールイ『銀の鳩』(小平武訳)、セリーヌ『なしくずしの死』(滝田文彦訳)、ガッダ『アダルジーザ』(千種堅訳)、サングィネーティ『イタリア綺想曲』(河島英昭訳)、カルペンティエール『失われた足跡』(牛島信明訳)、『大佐に手紙は来ない』(内田吉彦訳)、コルターサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)、バルガス=ジョサ『ラ・カテドラルでの対話』(桑名一博訳)、ドノソの『夜のみだらな鳥』(鼓直訳)、バース『酔いどれ草の仲買人』(野崎孝訳)などで、ここに初めてラテンアメリカ文学の長編が揃って翻訳されたことになる。

幅:でも今、言葉の大切さってちょっと軽んじられていますよね…。やっぱりものごとを伝達する上では、「読む」とか「言葉を知る」って、必須だと思っているんですよね。たとえば子どもがたくさん来るようなイベントに居合わせた時によく感じるんですけども…。何かストレスがあった時、「ウザい」としか言えない子が多い。なぜそれが「ウザい」のか。自分の中の心持ちをちゃんと細やかに分析して、言葉に落とし込む作業って、ある程度は鍛錬を積まないとできなくなると思うんです。筋力が必要というか。人間の複雑な感情というものは、国語のテストなんかでわかるものではなくて、本来は言葉ですら補完するのに足りないものじゃないですか。言葉ですら足りないものを何とかあてがって、誰かに伝えようとする時に、その細やかさをどうしても軽んじてしまう風潮もある。何となく、絵文字でごまかそうみたいな…。あれはあれで、空気を伝えるようなものでありながらも、「言い切らない」「突き詰めない」ということを恒常化しすぎるサインではあるんですけど。

福田:もっと、ちゃんと空気を伝えると。

幅:やっぱり、空気を伝えるためには言葉ですよね…。絶対に完璧な言葉はなくて、誰かの心持ちを100%表す言葉もないかもしれないけど、そこを探求することによって、コミュニケーションの歴史みたいなものがずっと紡がれているわけじゃないですか。でも、「物語なんて嘘じゃないですか、何で嘘を読む必要があるんですか?」みたいなことを聞く人も少なくないですしね。

福田:いますよね、最近ね(笑)。本当にあったことじゃないのに、何で本なんか読む必要があるのかとか。今の話の流れからいうと、本、そして言葉と親しむためには、幼少期の読書体験が大事ということは言えるんでしょうか。

幅:僕は、とても大事だと思います。実際にテキストを読んで、頭の中でキャラクターが動き出すような経験を若いうちにしているか、していないか。それによって、文章を読む持久力や体力みたいなものが絶対に変わる気がしていて。実際、出版の世界の現実を言うと、10年前に比べると本全体の売上は70%くらいまでシュリンクされちゃっているんですけど…。

福田:3割減ですか。

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