きっかけは「情報飢餓」だった
福田:この対談は毎回、ゲストの方に幼少期のことを伺うことにしているので、小林さんにもぜひお聞きしたいんですけども。 僕の場合は本当に単純で、中学2年生の時に地元・大阪の映画館で「スター・ウォーズ」を観て、なんじゃこりゃ!となったことです。で、「グリース」を観て「ヤング・フランケンシュタイン」を観て、「もうハリウッドに行くしかない!」と、単純に思ったという。やりたいことがその時点で決まっていたので、その後あまりぶれていないんですよ。デジタルやったり、芸能やったり、いろんなことをしているんですけど、根っこにある共通項は、エンターテイメントコンテンツに関わって、「効率的に人を楽しませたい」ということ。一人ひとりに面白い話をするのは、効率が悪いじゃないですか。バブル世代だからかもしれませんが、そういうマスメディア志向が高かったんですね。 小林さんの場合、幼少期に自分のやりたいことが明確になった時期というのはありますか?
小林:ありますね。僕の場合も、中学2年の夏休みでした。
福田:やっぱり。中2、14歳はキーなんですよ。とくに男子にとっては。
小林:東宝東和の創業者の妻で「日本映画の母」と呼ばれた川喜多かしこさんの半生を描いたドラマを観たんです。洋画の配給会社を立ち上げられたという、女性のお話。
それを観て、どこか心のツボを押されたのでしょうね。僕の住んでいたのは、長野県の超田舎なんですよ。今なら新幹線で1時間で行き来出来ますけど、それ以前は山に囲まれているから東京に出てくるのも大変で。とにかく、情報が少ないところでした。だから映画を観に行くのもひと苦労(笑)。ただ、川喜田さんのお話に刺激されたからと言って、「じゃあ自分も映画を作ろう」となるよりも、とにかくいろんなジャンルのコンテンツを貪って暮らしていましたね。新聞配達のアルバイトをしていたので、小遣いを貯めて、7素子の大きなFMアンテナを屋根の上に立てました。盆地だったから、近県のFM局が微かに入るんですよ。それで情報収集をしていました。
福田:情報への熱量を感じますね。長野県は、ケーブルテレビ王国ですもんね。
小林:そうです。山に囲まれているので、電波が弱い地域が少なくありません。
福田:山梨で以前、区域外再送信で訴訟がありましたよね。マイク・タイソンの試合はテレビ東京でしか放送していなかったのに、山梨県のケーブルテレビ局が山の上にアンテナを立てて見られるようにしちゃったから、「それは違反だ」となって。山梨って、先進的なんですよ。
小林:ははは(笑)。まあ、自分の場合、やりたいことが明確になったというよりは、ぼんやりとコンテンツを追い求める姿勢が醸成された感じですかね。その原因は「飢餓」だったわけです。情報飢餓によって、自分がメディア化するしかなかった。
福田:なるほど。それもまた、インターネット的な発想ですね。
小林:今考えると、そうですね。友達と「セックスピストルズっていうすごいバンドが出てきたよ」とか言って部屋に集まって聴くわけです。でも当時はレコードだから、シングルレコードは45回転で、アルバムは33回転。いきなり爆音のような演奏なんで、回転数を間違えたかなと。それでも「すげえな!」みたいになって(笑)。好きなパンクバンドのTシャツを買いに、東京の原宿までカツアゲされるのを覚悟で行くなど、とにかく刺激的でしたね。
福田:ははは。33回転のピストルズは、ちょっとデビッド・リンチみたいな感じで面白いですね(笑)