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19歳でラスベガスに単身渡米

「ヒットの神様」に愛されるには?YMO、ユーミンを生んだ名プロデューサーの破天荒人生(前編)   Talked.jp

福田:まず川添さんと音楽の関わりについては、ご著書にいっぱい書いておられますけれど、むちゃくちゃ古いですよね。

川添:それは、生まれる前からですよ(笑)だって、おふくろがクラッシックのピアニストだから。練習しているときに、お腹の中で聞いていたことになります。

福田:たしかに。それがDNAにすり込まれて。そして、60年代に渡米されたんですよね。最初がアメリカですよね?

川添:そう、19歳のときにアメリカに行きました。ハリウッドにシャーリー・マクレーンという女優さんがいて、その人のご主人がスティーヴ・パーカーというプロデューサーで、日本に住んでいたの。日本が好きだったわけね。で、そのスティーヴ・パーカーが、日本をテーマにした『MY GEISHA』という映画を手がけていたんですよ。

福田:日本語タイトルでたしか、映画『青い目の蝶々さん』の主演ですよね。シャーリー・マクレーンといえば、ジャック・レモンとの共演の映画でも知られる大女優ですよ! 

川添:そうです。僕の父がそのスティーヴ・パーカーと交流があったから、彼のプロダクションアシスタントに、僕を突っ込んだんですね。で、僕はそのシャーリーと、フランスの有名な歌手のイブ・モンタンが主演の映画をずっと手伝っていたわけ。製作部のパシリのパシリのまたパシリ、「弁当を運ぶ係」をやっていました。

福田:いまでいう、プロダクションマネージャーですね。「助監督」みたいな。

川添:助監督のまたパシリ(笑)19歳ですからね。で、そうしたら結構かわいがってもらって、今度はスティーヴがラスベガスでフィリピンの芸人を60人くらい集めて、でかいプロダクションのショーをやるというので、親父が「そこに行ってこい」って言うんですよ。「何をすればいいんですか?」って聞いたら、セットデザイナーが中島八郎さんという、それも有名な歌舞伎の舞台装置の方で、「お前ははっちゃんのアシスタントとして行ってこい」と。それで、高卒の19歳で渡米したわけです。

福田:当時、まだ1960年ですよね。63年前! そのとき語学はどうだったのですか?

川添:ほとんどできなかったね。ただ、うちは母親が英語、フランス語、イタリア語ベラベラで、親父もフランス語と英語がベラベラで。それで、夫婦仲が険悪になったとき、晩ごはんの席ではフランス語で喧嘩するんですよ。それを僕は子ども心にずっと聞いていたわけ、ずっと。だから多少、耳慣れはしていたんですね。

福田:すごいことですね。グローバルな家系でお育ちになられた。

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