引田天功仕込みのカード裁きで、 ニューヨーク行きの資金を稼ぐ
福田:キャパから話を戻しますと、川添さんは、お父様の言いつけでラスベガスにお手伝いに行かれた、と。シャーリー・マクレーンの旦那さんがプロデュースしたフィリピンの芸人のショーですね。
川添:そう、フィリピン・フェスティバルです。そこで僕は、ずっと中島八郎さんのアシスタントで、大工の手伝いをしていました。毎日毎日、トンテンカン、トンテンカンやってたわけ。でもショーが開いたあとは、もうセットデザインは関係ないですよね。そうしたら、そのプロデューサーのスティーブ・パーカーが、「あんた、ラスベガスにもうしばらくいたらどうだ。ステージマネージャーといって、舞台監督のアシスタントの仕事を付けてやるから」と。これはうまくいった!と思って、すぐ引き受けました。ステージマネージャーというのは、日本でいう舞台監督ですね。だけど「きっかけ(キュー)」を出すでしょう? きっかけというのは、舞台転換や音響、照明の合図です。このきっかけって、日本の場合は舞台監督が多少忘れても他のスタッフが優秀だから、舞台はちゃんと進行するの。ところが向こうはユニオン(組合)の規定で、ステージマネージャーがきっかけを出さないと、ボタン1個触っちゃいけない。だからすごく責任があるんですよ。
福田:アメリカの場合は、職務権限がはっきりしていますよね。
川添:そうです。でもその代わり、舞台監督は偉いわけ。僕は、というと、その舞台監督のアシスタントのアシスタントから始めて、だんだんきっかけを覚えていったんですよね。スペクタクルショーだから、きっかけも300くらいあって、ものすごく多いんですよ。花火が上がったり、水が流れたり、ダンサーが出てきたり。それらのきっかけを全部、覚えました。それで、ステージマネージャーが休むときは、そのアシスタントと僕との2人で、でかいショーを動かしていたんですよ。いま考えると冷や汗が出ます。
福田:そのときは20代くらいですか?
川添:まだ19歳。
福田:19歳! それはすごいですね~!(笑) つまり10代から国際舞台に出ていらっしゃった。
川添:そんなにかっこいいもんじゃないかもしれないけど……。それから、ラスベガスだから、ギャンブルできるでしょう。僕、ギャンブルがうまかったんですよ。
福田:「ギャンブルがうまい」という方って、初めて聞きました(笑)
川添:それはね、中学生のころに、初代の引田天功と仲よくなったからなんです。引田天功って、もともとは東横デパートの手品売場で、手品を見せながら手品道具を売っていたお兄ちゃんだったんですよ。
福田:すごい……信じられないですね。後年のゴールデンタイムに出ていたお姿から考えると!
川添:僕もあとでびっくりしましたけどね。その天功と仲よくなって、2人でいろんなトリックと手品を開発したりなんかしてね。だからラスベガスに行ったときも、僕はカード慣れしていたわけ。それでショーのギャラとギャンブルの儲けでお金を貯めて、そこからニューヨークに行きました。 ラスベガスでの滞在が1年で終わって、「ニューヨークに行きたい」と親父に手紙を書いたら、「おお、行ってこい、行ってこい」と。親父は、お金は一切送ってくれないので、自分で稼いだお金でニューヨークに行きました。ただ、うちの親父は人脈はあって、ニューヨークでもパリでも、海外にはたくさん知り合いがいたんです。で、ニューヨークでは、東京オリンピックの開会式・閉会式の演出をした伊藤道郎さんという、伊藤芸術一家の三男坊で伊藤祐司さんという人が住んでいらして。その人はブロードウェイのセットデザインだとか、小道具など舞台美術デザインをやっている人だったんだけど、そこに転がり込みこみました。
福田:いまにして思えば、当時から国際的に活躍している日本人が各地にいたということですよね。いまのほうがいるべきなのに、いまのほうが海外に日本人があまりいないですね。先日、川添さんも交流のある弊社の顧問、コンセプターの坂井直樹さんとも、「60年代当時は、音楽、アート、ファッション関係の人たちがニューヨークはじめ、サンフランシスコやパリに行っていた」とおっしゃっていました。でもいま、全然そういう若者が海外にいない、と。
川添:日本人がなんか、元気がないね。青年たちが気宇壮大にならないんだね。
福田:ならないですね。僕は、ある意味インターネットのせいかなと思いますけど。ネットで見たことで、世界に行ったような気になってしまって、それで出て行かないのかな……。
川添:それは正しいでしょうね、きっと。