ある日、実家がNPOに。多様性が身近にあった十代
福田:ちょっと話、さかのぼっていいですか。渡部さんは、どういう環境の幼少期だったんですか。記事で、国境を超えていろんな人種の人が遊びに来るお宅だったって読んだんですけども。
渡部:私が中学生ぐらいのとき、ある日実家がNPOになっていたんです。
福田:ある日突然? その環境は、大きいですよね。
渡部:「NPO法人」っていう言葉自体、そのときはまだ知らなくて。「そういえば、最近お父さん、スーツ着て仕事に行ってないなぁ」みたいな。父親は静岡県の県庁職員だったんです。
福田:それが、辞めちゃっていた?
渡部:はい。いつの間にか自宅兼事務所になっていて。いろんなNPOの仲間、私からするとおじさんやおばさん、お姉さんみたいな人たちが集まるようになっていました。 日本人だけじゃなく、いろんな国のいろんな人種の方もいましたね。お母さんがフィリピンで、お父さん日本人で、お母さんはもう5回ぐらい変わっているけど「みんなフィリピン人」という子とか。
福田:なるほど。
渡部:学校に行ってない子、行けない子とかも。あと障害者助産所とかで働いていて、7時ぐらいになると、いつもうちに来る年上の男の子とか。家庭内暴力で行く場所がなくなって、逃げてくる子もいました。
福田:お父様は、何のNPOを始められたんですか。
渡部:私の理解では、不登校の子や、家庭にいられなくなった子のために、学校でも家庭でもない「第3の居場所」を地域に作るNPOですね。子どもと若者の居場所、コミュニティースペースづくりですね。今で言う、子ども食堂みたいな。
福田:先駆けですよね。今もお父様はそのNPOを継続されているんですか。
渡部:はい。だから実家に帰るといろんな人がいますよ。
福田:すごいですね。ダイバーシティーだ。お父さんも県庁にお勤めになって、感じることがおありになったのでしょうね。
渡部:「子どもの居場所づくりをやりたい」という話は、実際に父から聞いたことがありました。児童相談所のケースワーカーもやっていたので。でも、行政ができることの限界みたいなものが見えてきたのだと思います。
例えば虐待がある家庭の担当になっても、「3月で異動だよ」となったらプツンと関係が切れて、もうコンタクトは取れなくなってしまう。「あの家の子はどうしているだろう」と気になっても、「もう担当が違うから」っていう理由でその先はわからない。そういう大人の事情で、手が届き切れなかった子たちがどこに行くのかという思いから、NPOという形に行き着いたらしいですね。
福田:渡部さんご自身も、その影響を受けますよね。もちろん。
渡部:そうですね。私自身は学校が好きでした。学級委員とかをやるのも好きだったし、運動会も楽しかったし、合唱コンクールも普通に楽しかった。でも友達から仲間外れにされたり、先生の心ない一言で長い不登校につながってしまったり、いろんな子がいて……。家で一緒にご飯を食べる子たちは、普通に学校へ通える子たちとは違っていました。でもそこでは、いろんな子に会えたり、いろんな見方を教えてもらったり。純粋に楽しかったですね。