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YMOが社会現象になった理由①

「ヒットの神様」に愛されるには?YMO、ユーミンを生んだ名プロデューサーの破天荒人生(後編)  Talked.jp

福田:ここまでのお話を伺って、昔のほうが、話がストレートで伝わりやすかったんだなぁと思いました。いまは何でもごちゃごちゃと会議をして、でも「自分には決める権利ないから」なんていう人がやたら増えてしまった気がします。トップの人でも「決められない」という人が多いです。

川添:いまはどうなのか、僕はよく分からないですけどね。たしかに昔は話がストレートでした。プロデューサーのところに持って行って、アイディアを出して、「これやらない?」「おお、やるやる」で決まることばかりだったから。

福田:この50年で、ムダに会議が増えましたよ、確実に。僕なんかは、そういうムダな会議には絶対出ないと決めていますけれども。

川添:僕が村井くんとアルファレコードを設立したときに、社是みたいなものをつくったんですよね。そこに会議をテーマに、こう書きました。「会議して議せず。議して決せず。決して行わず。これを“馬鹿者会議”という」って。それを会議室に、どーんと貼っておいた(笑)

福田:いいなぁ。やっぱり、そのインディーズ精神、パンクですよね。その社是、見たかったなぁ(笑)…そうすると、会社としては、瀬戸際から起死回生でヒットを連発するようになったんですね。川添さんが手掛けたヒット作品は、僕が幼少期のときに聞いたものばっかりですよ。サーカス、ハイ・ファイ・セット……全部です。

川添:そうそう。ルネ・シマールとかセルジオ・メンデスとか。それからYMOね。

福田:やっとYMOにたどり着きました(笑)

川添:YMOをつくりました。それで、細野晴臣くんが例のユーミンのときも活躍した優秀なセッションミュージシャンでアルファレコードに多大な貢献をしてくれたので……。細野晴臣くんのアルバムをつくろうとなって、村井くんと僕と2人、細野晴臣くんに全部任せていたわけ。それで半年くらい経ったら、村井から僕に電話がかかってきて、「象ちゃん、細野晴臣のアルバムができたんだけど……。ちょっと聞いてくれる?」って、あんまり元気のない声で電話がきた。

福田:元気がない……(笑)

川添:「OK!」って聞きに行ったら、最初変な電子音がして「プーピープーブー……」なんてやってるわけよ。途中から調子がよくなるんだけどね。で、村井が「これ、どうしたらいいかなぁ、売るの」って言うんだよね。

福田:前衛的すぎたんですか。

川添:うん。もう前衛もいいところ。なにせ世界で初めてのテクノポップだからね。しかもインストゥルメンタルでしょう。それで渡辺正文氏という、僕がTBSでいくつも仕事を一緒にしたプロデューサーのところに持って行ったんですよ。「こういう音楽をつくったんだけど、テレビに出してほしい」と頼んだら、「こんなもの、テレビに出せるわけないだろう」ってにべもなく断られて。

福田:冷たいですね(笑)いまのYMOを思うと、考えられないリアクションです。

川添:理由を聞くと、「だって3人とも特別いい男じゃないし、歌はないし、何をとりえにテレビに出せっていうんだよ」なんて言うのよ。だから「いいよ、もう」って(笑) で、今度はラジオ局にプロモーションをしに行ったんですけど、ラジオ局というのは全部、(音楽を)ジャンル分けして番組をつくっていたんですね。(YMOは)ジャズでもない、歌謡曲でもない、まだジャンルがない音楽でしょう。だからどこもかけてくれなくて、プロモーションしようがなかったんです。したがって売れるわけ、ないですよね。細野晴臣くんの名前で、ようやく2千枚くらいは売れたけど、「さてここからどうしよう」って、ずっと村井と悩んでいたわけ。そのとき、たまたま流行っていたのが「フュージョン」というジャンルだったんです。イメージでいうと、ジャズのおしゃれな感じ。それでアルファレコードで、「フュージョンフェスティバル」をやろうということになって。村井くんはA&Mレコード(米ユニバーサル ミュージック グループ傘下のレコードレーベルで1962年にハーブ・アルパートとジェリー・モスが設立)のエキシビションの権利を日本で取っていたから、A&Mのフュージョンミュージシャンと、日本で僕らがつくった渡辺香津美とかカシオペアとか、そういうアーティストを集めた音楽フェスを紀伊國屋ホールでやることにしたんです。

福田:カシオペア! 聞いていましたよ! ライブも行きました。

川添:そうですか。ありがとうございます。

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