「個」より「集団」優先できた日本
福田:2015年に電通で、新人の女性社員が過労自殺をした不幸な事件がありましたよね。以降、僕は海外の友達やメディア関係の人に、「過労死というのはどういう意味か?」と聞かれることが増えました。でも英語で説明するのは意外と難しいんです。「奴隷だったのか?」「いや、奴隷ではない」。「家に帰ることは出来たのか?」「家には帰れた」。「ではなぜ、帰れないのか?」「いや、それは…」という感じで、堂々巡りになるんです。「過労死」のほかにも、「忖度」も、英語で説明するのが難しいですね。「忖度」は、「誰かがいつか思うかもしれないことを先回りしてやる」っていうことじゃないですか。「ボスは、部下に指示をしたのか?」って必ず質問されます。「いや、指示はされていない。指示が来るであろうと思ってやった」「指示が来ていないのに、なんでやるんだ」って、これもまたずっと平行線です。
野中:言語として説明はできるけど、腑に落ちてもらえない。というのは、その考え方をする脳の歴史が、英語圏ではないからですよね。
福田:ないでしょうね。生まれたときからないんでしょうね。
野中:今のお話を伺いながら思い出したのは、厚生労働省になる前の厚生省や労働省時代から「土曜日を休みにして週休二日にしたい」とか「ワークライフバランスを考える会」とか「月曜日を連休にするハッピーマンデーの法制化に向けて」とかとか。「有休をいかにすれば、労働者に取ってもらえるか。そういう法整備ができるか」などという審議会がいくつもあったのです。
福田:そんなにたくさん?
野中:はい。どれにもアサインされるので、その度に「すみません。毎回同じことを言うようで、恐縮ですが…」を枕詞に、「フランスでこの委員会は成立しませんよ」と言い続けていました。フランスならば、国民よ、もっとバカンスを縮めて、もっとGDPのために働け!とおしりを叩くための委員会ならありうるけれど、と(笑)。そもそもワークライフバランスという言葉が大嫌いなんです。どうして「ワーク」の言葉が先に来るのか? まずは「オレの人生」「私の人生」が先にあって、「こう生きたい」という、個の生きざまがあるはずじゃないですか。で、それをもとに「こういう働き方をしたい」という、それぞれのライフ設計のもとにワークがあるわけですよね。敢えて言うなら「ライフ・ワークバランス」。 さっきおっしゃったメンタリティの違いで言えば、私たち日本人には「過労死」と「忖度」という言葉があるけれど、フランス人のみならず、アメリカ人でも、コケイジャンの文化の人たちにはそれがないわけですよね。
福田:ないですね。
野中:「働く」という現場を考えれば「オレとお前の関係は上司と部下だろう」「ええ。だから言うことは聞きます。その代わり、契約はこれです。オレの人生のうちの週20時間を会社にあげるから、金をくれ」っていう。
福田:非常にわかりやすい契約関係ですよね。
野中:契約です。どっちが主人公かと言うと、働き手が主人公だと思う分はこっちが握り、「雇ってやってるんだぜ!」という方が主人公になれる部分はそっちが握っていて、どう折り合うかですよね。つまり我が国には、「個」がないから契約関係は人生丸抱え的「属性」問題になる。子どもの頃から「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」「座っていなさい」と言われる。「どうして?」と聞くと、「ここは学校だから」「幼稚園だから」。
福田:「みんな座っているから」とかね。
野中:はい。まず、集団の空気を読め。お前のビヘイビアは、その集団の中の一部でしかない、と言われる。「家だったら暴れていいけど、ここはダメ」って。そこはコミュニケーションというよりも、自己認識のもとになるのは、「個」では」なく、まず「集団」。属性が兎に角大事、なんだと思います。日本は。
福田:そうでしょうね。その良さが出たのが、20世紀後半の大量消費による過剰生産だと思うんですよね。当時、組織重視の「トヨタ式」は良かったと思うんですよ。それがイーロン・マスクみたいなカリスマ経営者が出てきた時に、価値感が大きく変わっていったわけです。コロナが終わって、在宅勤務をやめて、出て来いと。「週に40時間働け」「えー?」となったわけですが、考えてみたら1日8時間ですから、それが普通なんですよね。大きな企業でも、経営者の考えがすぐに反映できるような価値観が、経営にスピードをもたらしています。
野中:「赤穂浪士」時代の江戸の「藩人」が「会社人」になっただけの日本の「個」と「属性」メンタリティー、まだ健在……。
福田:本当にそう思います。