その表現は、本当に正しいのか
福田:堤さんが「ここは嘘がある」とピンとくるようなことは、例えばどんなニュースでしょうか。差し支えない範囲で結構ですが。
堤:「嘘」はささいな言葉に潜んでいます。毎年夏に、霞が関官僚の幹部人事がありますよね。そのとき「◯◯省の事務次官がこのたび勇退する」という人事記事を見たとします。勇退は、「勇ましく退く」と書きます。そこで「なぜ勇退なの?」と私は思います。普通に「辞任」か、あまり好きではない言葉ですが「退官」でいいのではないか、と。「このたび辞任する」で十分なわけじゃないですか。
福田:英語で言うと“Step down”という表現もありますよね。または“Resign”“Resignation”など。シンプルな表現ですよね。
堤:その通りです。なのになぜ「勇ましく」とわざわざ書く必要があるのか。田舎に戻って晴耕雨読の余生を送るといったすっきりした引退なら勇退と書いてもいいと思うんですけど、ほとんどの場合、どこかに天下りして2年か4年、名誉職的なポストに就いたり、あるいは非常に重要な役職にいずれなったり……。それで数年務めると、また高額な退職金をもらってジョブ・ホッピングしていくわけですね。かつて次官経験者で、4回も天下りを重ねて、それぞれ数千万円の退職金をもらっていった例を調べたことがあります。だから「なぜ勇退?」と引っかかる。おかしいでしょう? でも記者たちは、役所の広報担当が伝える、その言い方に馴染んでいて。
福田:疑問に思わない。鵜呑みにしてしまう。
堤:はい。だから人事原稿を頼むとしばしば、「このたび◯◯省は夏の人事を決めて、事務次官だった誰々さんが勇退することになった」と書いてあるわけですよ。僕は一切、そういう原稿は使わないと決めていました。なぜなら、そういう原稿を書く筆者は、そもそも、役人や政治家との“正しい距離”がとれていないことが多く、物事を正しく客観的に見ているかにも疑問符が付くからです。
福田:言葉の扱いは徹底的にこだわっておられた、ということですね。
堤:そうです。そうやってある意味で「テキスト批判」しながら記事を読んでいくわけですが、それで終わりではありません。書き手を探し、篩(ふる)い分けるのがひとつの目的ですので、いい記事を書いてくれそうな記者、逆に、お付き合いしたくない記者の名前を、それぞれ必ず覚えていきます。
日本の新聞でも署名記事がようやく増えてきました。海外のメディアと違い、最初に名前の出てくる新聞は少ないですが、それでも、文末のカッコ内に筆者名が載っていることが多い。その名前を頭に入れておき、必要な場合にコンタクトをとるわけです。この人はいいものを書いてくれそうだなと思ったら、すぐに会いにいくこともあります。
一方で、原稿は一見よく書けていたり、すこぶる面白かったりするのに、どこか違和感を感じさせる記者もいます。多いのが、自分の主張したい方向に持っていくために、牽強付会(けんきょうふかい)に材料をつなぎ合わせてあるケース。こういう書き手を昔は「鉛筆をなめる記者」などとよく言いました。いまなら「ふくらましの得意な書き手」でしょうか。
「鉛筆をなめる」タイプは、文章そのものは上手なことが多いのです。牽強付会さを、つなぎの文章の巧みさでごまかしている。それを見抜くには、こちらにもそれなりの経験と努力、そして情報の積み重ねが求められます。