五感を磨く社会をつくる
福田:聞くと最近は、ハンカチ落としができない子どもが増えているというんですよね。ハンカチ落としという遊びは、風とか気配とかを感じる遊びですから、勘が悪いと気が付かない。それで鬼だけがぐるぐる回って疲れちゃうと、大阪の小学校でそういうこと本当に起きたんです。
先日、僕の同年代のコンサルタントの方が、とあるテレビ局の部長さんに用事があって電話をしようと思ったら携帯を忘れてしまったと。仕方がないので公衆電話から代表電話にかけて、その部署に繋いでもらおうとして、「◯◯部長はおられますか」と聞くと、受付の女性が「いますけど」と返してきたと言うんです。ひと昔前であれば、「ただいま取り次ぎます」というのが普通だったのですが、「いますけど」って不思議ですよね。どこかの職場が課長が、「みんな昼飯、食ったか?」って言ったら、「ああ行きましょうよ」となるところを、今は「まだですけど」。これって一体なんでしょう? 恐らく、デジタルの弊害が生活に出てきていると思うんです。
僕は昭和40年生まれなんですけど、時代が良かったんですね。全力遊びをするので、直感が磨かれざるを得ない。僕の家の前が公園で、よく野球をして遊んでいました。うちの目の前公園だから、親は一番迎えに来るのが遅いんですけど、いいところの子は、「もうご飯よ」とかって言って、だんだん人数が少なくなる。
でも僕らは野球をやめたくないから、親が迎えに来ないメンバーだけが残る。そこで、3人くらいで野球をする遊び方を開発するんですよ。一番大変なのがバッター。キャッチャーと兼務なので、空振りすると、そのままボールを取りに行かなきゃいけないんですね(笑)。外野と内野1人なので、打ったら走りまくって大変なんです。ピッチャーは、ピッチャーだけなのでいいんですけどね。そんな風に、日常が全力遊びの連続でした。
ところが今は、子どもは「知らない人と話しちゃ駄目」と言われてしまう。おかしな事件も多いので、仕方がないのかもしれませんが。先日、文京区のとある小学校で「人間」という授業をやったそうです。包丁職人さんなんかを呼んできて、どういう仕事をこだわってやっているのかについて話してもらうのですが、子どもたちからは「月収、幾らですか」という質問が出るという。「今時の子どもは」なんて嘆くのは勝手ですが、子ども側からすれば、「大人と接するな」と言われてきたのだから、そうなってしまっても仕方がないと思うんです。社会が、そういうふうになってしまったから。なのでやっぱりもう一度、子どもたちが五感を磨けるように、全力遊びを取り入れるべきなんじゃないかなと思います。
アメリカでは、1980年代から2000年代初頭までに生まれた人を「ミレニアル世代」と呼ぶそうです。そういう世代の人たちの人気コラムを読むと、老成しているというか、老人が語っているような論調のものがすごく多いなと感じます。老人の安定した文体で書こうとする、その背景にあるのは、テクノロジーの進歩とともに、「子どもや若者の脳のCPUも上がったからかもしれない」という仮説を僕は立てています。もしそうであるならば、やっぱり今、新しい全力遊びのプログラムを、大人が提供するべきではないでしょうか。
生まれた時からソーシャルメディアが身近にある今の人たちは、僕らとはやっぱり環境が全く違います。スマホ以前、ガラケー全盛期の頃は、「前略プロフィール」(現在は配信終了)という、ウェブサイトサービスが中高生のネットコミュニティーの主流でした。ガラケー時代のSNSとして爆発的な人気を誇った通称「前略プロフ」では、彼氏とキスした写真を連続で上げるなんて、日常茶飯事でしたよ。
でもガラケー文化というのは中高生が中心だったために、大人の目が届かなかっただけ。それがスマホの時代になって、大人の目が入るようになったことで、「あんなことをしてけしからん」とか、バカッター呼ばわりされるようになっただけであって、子どもたちが急に悪いことをし始めたわけではないんです。
そういう共通理解の下に、大人は子どもたちのために、もっと五感を磨くようなプログラムを組んであげるべき。そのアイディアが待たれるところですが、語感を磨く社会やインフラを、大人が作らなければいけないと感じています。
今日、この銀座の平日に、このような問題意識持った方々がご来場して来てくださって、「ブランディングとは何だろう」とか、「五感を持って生きるとは何だろう」と、考えるキッカケになったと思うんですね。企業でいえば、「CSR」となってしまいますけども、個人レベルで、一人でも多くの人が、安心安全で、社会全体にとって良い事とは何かを考える。それがブランディングの根幹であり、ひいては世の中を底上げしていくことにつながっていくのではないでしょうか。
今日は、ご清聴いただきまして、ありがとうございました。
(了)