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東京ドーム興行秘話①

伝説のプロモーターが読み解く「エンタメの未来2031」(前編)   Talked.jp

福田:北谷先生ご自身のストーリーが、もはやドラマみたいですよね(笑) それは1988年前後のことでしょうか?

北谷:そうですね。私は当時、まだ30代でした。後楽園スタヂアムも日本の大きな組織ですから、既存の役員クラスの方々にしてみれば、「こんなアメリカの若い教授を連れてきて、なぜうちの社長はそんなことをやろうとしているんだ。だまされているに違いない」と、こちらが悪者になりまして。

福田:わかります。そうなりますよね。

北谷:そこで、スポーツでいえばアメフトのNFLやバスケットボールのNBA、海外の大物アーティストであれば、どうすれば招致できるのか。条件を調べあげて確証を取って報告をするのですが、みなさん懐疑的でした。「それは新聞社や代理店がやることで、自分たちがやる仕事じゃない」と。でも社長のほうが先に理解を示して下さって、「みんな言うこと聞かないのか、じゃあ北谷先生には取締役になってもらう。そうすればみんな言うこと聞くよ」と。それで私は、当時東証で下から2番目に若い取締役になっちゃったんですよ。

福田:IT以前の時代で、それもすごいお話ですね。

北谷:そういうステイタスをいただいたこと、それからペアリングさせていただいた秋山興行部長、また社長の新しい発想などが重なって、いろいろとうまく回り始めました。で、日本で初めて会場が招聘してローリング・ストーンズを連れて来る運びとなりました。1990年2月に行われたローリング・ストーンズの10回公演ですね。

福田:就任からわずか1年足らずのことですよね?

北谷:はい。そこは海外で培った人脈が全て助けてくれました。「ローリング・ストーンズの次の世界興行権を持っているのは誰だ」「それはトロントにいるこの人物だ」「じゃあその人物にアプローチするにはどうすればいいのか」「出資しているのはカナダの会社らしい」「じゃあそこの社長、会長に会いに行くのはどうすればいいか」……そうやってモザイクを一つひとつ詰めていきました。そしていちばん効いたのは、東京ドームが当時、「Forbes」の世界の有力企業2000社ランキング(グローバル2000)」で120番目くらいに入っていたことです。当時はバブルで都心に広大な不動産を持っていた。東京ドームの資産価値がものすごく高かったんです。なので海外で「東京ドームって何?」と聞かれたときも、「Forbesのグローバル2000リストには、“東京ドーム”とちゃんと書いてありますよ」と言うと、いろいろな会社のエグゼクティブも政治家も、マディソン・スクエア・ガーデンのオーナーもみんな信用してくれるようになったわけです。「それはすごい」と。

福田:なるほど。

北谷:我々も、当時は業界内で経歴のない会社でしたから、信用を得られる方法は何か、いろいろ考えるわけです。ローリング・ストーンズを呼んでくるのもいいけれど、それだけでは恒常的な信用性にはならない。そこで、世界で冠たる会場と言えばマディソン・スクエア・ガーデンです。「じゃあマディソン・スクエア・ガーデンと姉妹施設提携をやろう」と。

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